2008年07月14日
少年時代
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昨日は父の祥月命日。
もう四十年も前のことだが、同じように晴天の暑い日だった。
一度目の手術後、退院して温泉旅行などしていたが、その後病状が悪化し二度目の手術のため再入院。
この日、私は父の店で働くバーテンの一人に連れられ、池袋のマンモス・プール(現豊島清掃工場)へ。
弟も一緒だったはずなのだが、記憶が定かではない。
すでに身内には父の死が近いことを通告されていたのだろう。
もしかすると危篤状態に陥ったために、連れ出されたのかもしれない。
未だにその辺りのことは不明だ。
私も敢えて聞いたことはなく、今後も多分聞くつもりもない。
このバーテンダーを、私はとても慕っていた。
彼の実家である秋田は横手にも何度か連れて行ってもらった。
その実家から程ないところに流れる川、名前を忘れたが、そこでの川遊びは今でも鮮明に覚えている。
この日、今思えば彼の様子がおかしかった。
彼も父の病状や危篤状態であることを知っていたに違いない。
私が彼を慕っていたように、彼もまた父をとても尊敬していた。
これも想像だが、彼も父から将来を嘱望され、きっと店を任されることにでもなていたのだろう。
父の死後も母を支えて、最後まで店を守ってくれた。
ワンクリック!→
プールでひとしきり遊んだ後、帰路の途中でホステスの一人が駆け寄ってきた。
「気を落とさないでしっかりしてね・・・。お父さんが今さっき・・・。」
彼女の顔を見れば、何があったかは最後まで聞く必要はなかった。
彼女も家族ぐるみで長く店を支えてくれ、私もとても可愛がられた。
言ってみれば、少々年の離れた姉のようなものだった。
その彼女の泣き顔を見て血の気が引いた。
そこから家まで走ったことは覚えているが、どこをどう走ったのか全く記憶がない。
気付いた時には、父の遺体の前で泣き崩れていた。
私は父親にとても愛されて育った。
尊敬もし、愛してもいた。
病のことを、ほとんど知らされていなかった私は、父が死ぬなどとはよもや想像もしていなかった。
私にしてみれば、父はスーパーマンだ。
だから死ぬわけがないのだ。
その父が死んだ。
目の前の遺体はまだ温かかった。
火葬場で、父の亡骸と共に焼却炉に入ろうと、止める親戚の大人3人を引き摺ったことは今でも語り草だ。
焼かれて出てきた灰と骨を拾った時、何故かスイッチが切り替わった。
自立しなければいけない。
そう強く思った。
早く大人になりたかった少年時代。
父が生きていた頃には、小学校があと何年、中学が3年、高校が・・・などと指折数えて、あまりの時間の長さに気が遠くなったのを覚えている。
その想いが加速した。
あれからもう四十年以上が過ぎた。
父の寿命を、私はもう15年も超えた。
子供の頃の病弱さを一転、健康な身体に変えるきっかけをくれた父。
それから大病の経験もなく、身体にメスを入れたことも、入院したこともない。
神道の家系だが、私は信心深い人間でもない。
それでも常に父が守ってくれているという実感がある。
子供達も大病や事故の経験もなく育った。
母も弟も元気だ。
これまでは、これほど父のことを思い出したことはそうなかった。
区切りの年の所為か、ふとそんなことを思った一日だった。
フィリピンの貧困意識調査の結果が出た。
50%が「我が家は貧乏」と考えているようだ。
今の日本も似たようなものかもしれない。
少なくとも一億総中流などという意識は、疾うの昔に消えたはずだ。
不思議なことに、フィリピン政府の貧困政策に対する満足度は思ったより高い。
調査は成人1,200人を対象に面接方式で行われたそうだが、設問の内容を知りたいところだ。
貧困意識調査
50%が「我が家は貧乏」と回答。現政権の貧困対策の満足度は若干アップ
[ 2008年7月13日のマニラ新聞 ]
民間調査機関ソーシャル・ウエザー・ステーション(SWS)はこのほど、貧困に関する世論調査(三月二十八日・三十一日実施)の結果を公表した。
「わが家は貧困世帯」との回答は二〇〇七年十二月の前回調査から四ポイント上昇し、五〇%となった。
一方、アロヨ現政権の貧困対策への「純満足度」は、前回調査から三ポイント上昇し、七となった。
調査結果によると、「わが家は貧困世帯」との回答は全地方で上昇。
最も高かったのがミンダナオ地方で前回調査比六ポイント増の五三%、続いて、ルソン地方が同二ポイント増の四八%、首都圏が同五ポイント増の四七%、ビサヤ地方が五ポイント増の四二%。
「貧困世帯」の基準となる一世帯当たりの月収額は、ビサヤ地方で前回調査比から三千ペソも急増して八千ペソ。
ルソン地方で同千ペソ増の六千ペソ。
首都圏では前回と変わらず一万ペソだった。
ミンダナオ地方は前回調査から二千ペソと大幅に減少し、六千ペソだった。
一方、現政権が推進する貧困対策については、「満足」が四五%、「不満足」が三八%だった。
満足から不満足を差し引いた「純満足率」は七。
前回調査の同率は四だった。
調査は成人千二百人を対象に面接方式で行われた。
ドラッグ・トラップ事件関連は、フィリピンパブ ファンタジア別館にて。
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「気を落とさないでしっかりしてね・・・。お父さんが今さっき・・・。」
彼女の顔を見れば、何があったかは最後まで聞く必要はなかった。
彼女も家族ぐるみで長く店を支えてくれ、私もとても可愛がられた。
言ってみれば、少々年の離れた姉のようなものだった。
その彼女の泣き顔を見て血の気が引いた。
そこから家まで走ったことは覚えているが、どこをどう走ったのか全く記憶がない。
気付いた時には、父の遺体の前で泣き崩れていた。
私は父親にとても愛されて育った。
尊敬もし、愛してもいた。
病のことを、ほとんど知らされていなかった私は、父が死ぬなどとはよもや想像もしていなかった。
私にしてみれば、父はスーパーマンだ。
だから死ぬわけがないのだ。
その父が死んだ。
目の前の遺体はまだ温かかった。
火葬場で、父の亡骸と共に焼却炉に入ろうと、止める親戚の大人3人を引き摺ったことは今でも語り草だ。
焼かれて出てきた灰と骨を拾った時、何故かスイッチが切り替わった。
自立しなければいけない。
そう強く思った。
早く大人になりたかった少年時代。
父が生きていた頃には、小学校があと何年、中学が3年、高校が・・・などと指折数えて、あまりの時間の長さに気が遠くなったのを覚えている。
その想いが加速した。
あれからもう四十年以上が過ぎた。
父の寿命を、私はもう15年も超えた。
子供の頃の病弱さを一転、健康な身体に変えるきっかけをくれた父。
それから大病の経験もなく、身体にメスを入れたことも、入院したこともない。
神道の家系だが、私は信心深い人間でもない。
それでも常に父が守ってくれているという実感がある。
子供達も大病や事故の経験もなく育った。
母も弟も元気だ。
これまでは、これほど父のことを思い出したことはそうなかった。
区切りの年の所為か、ふとそんなことを思った一日だった。
フィリピンの貧困意識調査の結果が出た。
50%が「我が家は貧乏」と考えているようだ。
今の日本も似たようなものかもしれない。
少なくとも一億総中流などという意識は、疾うの昔に消えたはずだ。
不思議なことに、フィリピン政府の貧困政策に対する満足度は思ったより高い。
調査は成人1,200人を対象に面接方式で行われたそうだが、設問の内容を知りたいところだ。
貧困意識調査
50%が「我が家は貧乏」と回答。現政権の貧困対策の満足度は若干アップ
[ 2008年7月13日のマニラ新聞 ]
民間調査機関ソーシャル・ウエザー・ステーション(SWS)はこのほど、貧困に関する世論調査(三月二十八日・三十一日実施)の結果を公表した。
「わが家は貧困世帯」との回答は二〇〇七年十二月の前回調査から四ポイント上昇し、五〇%となった。
一方、アロヨ現政権の貧困対策への「純満足度」は、前回調査から三ポイント上昇し、七となった。
調査結果によると、「わが家は貧困世帯」との回答は全地方で上昇。
最も高かったのがミンダナオ地方で前回調査比六ポイント増の五三%、続いて、ルソン地方が同二ポイント増の四八%、首都圏が同五ポイント増の四七%、ビサヤ地方が五ポイント増の四二%。
「貧困世帯」の基準となる一世帯当たりの月収額は、ビサヤ地方で前回調査比から三千ペソも急増して八千ペソ。
ルソン地方で同千ペソ増の六千ペソ。
首都圏では前回と変わらず一万ペソだった。
ミンダナオ地方は前回調査から二千ペソと大幅に減少し、六千ペソだった。
一方、現政権が推進する貧困対策については、「満足」が四五%、「不満足」が三八%だった。
満足から不満足を差し引いた「純満足率」は七。
前回調査の同率は四だった。
調査は成人千二百人を対象に面接方式で行われた。
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この記事へのコメント
1. Posted by ぴん 2008年07月15日 15:30
中学の頃、同級生のお姉さんが池袋で働いているとちらっと言っていたのを何故か憶えていて、後年どの様な仕事か何となく想像出来た。
マンモスプールの有る頃のこと。
マンモスプールの有る頃のこと。















